歴伝奉行
2018.3.26
大阪の甘党を支えたのは東讃だった!?
歴伝奉行です。コンニチハ。
ツアー「〜なぜ、東讃で高級国産砂糖がつくられた?〜 深く知りたい、和三盆の世界」では、なぜ、東讃で高級国産砂糖がつくられたのか?という謎を解きながら、東讃地域に残る和三盆にまつわる物語を訪ねます。
これまでに、「源内先生をはじめ、讃岐の人々が国産の砂糖づくりに心血を注いだから」、「花崗岩に囲まれて豊富な水があり、水はけの良い海岸際の砂地が、サトウキビ栽培に適していたから」という2つの理由を紹介してきました。
今回は、東かがわ市引田の誉田八幡宮にある、珍しいものをご紹介しましょう。
パッと見は、よくある狛犬なのですが、台座をよ~く見ると【沙糖】と書かれていますね。記事、一番上の写真の神社の玉垣にも右から【大坂砂糖問屋】と刻まれていますよね。
誉田八幡宮のすぐ横は、東讃一の風待ちの港とされた引田港。なんと、これらは全て、大坂の砂糖問屋らが寄進したものなのです。当時、大阪で出回った白砂糖の55%は、引田から運ばれていた讃岐産だったという資料も残っています。つまり、大阪の甘党を支えていたのは東讃だった!
このような、大阪との太い流通網があったことで、東讃は、またたく間に全国に知られる白砂糖の産地となりました。明治期のさぬき市志度には、讃岐志度製糖所が置かれたりもしたのです。
〜なぜ、東讃で高級国産砂糖がつくられた?〜
謎解きの3つ目「生産された白砂糖を大消費地に届けられる、讃岐一の流通網があったから」です。
つづく